バリピル宇宙はじめました。

宇宙空間での生き方を綴ります。嘘です。

「死は水蒸気」

( ✪ ω ✪ )バリピルです。

こんばん割れ目から…虫が!

今回の記事は固いので

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 スルーOK・GOGOです。

興味ない人は、

一気に下までいって下さい★

 

執着と幸せ・真我

今回は若い人が読んでもらっても構いませんが、到底受け入れがたい

と思うでしょうし、若いうちは自我を十分成長させることの方が重要です。自我を成長させるには、貪欲である必要があります。ですから私は若い人には徹底的に利己的に人生に積極果敢に関与して生きてほしいと思います。

しかし、人生最も味わい深いのは中年期でしょう。幾多の人生経験を経て初めて分かることがあります。しかし必ずしも中年者でなくとも、人生に十分に苦しんできた方、今苦しんでいる方は、ここに書かれていることを理解することがより容易かと思われます。

 

 さて、幸福になるにはどうしたらいいのか?幸福になることこそが、人生の目的ですが、実は誰でも幸福になれるでしょう。なぜなら、幸福とはあくまで主観であるからです。自分を客観的にみてどのようにひどい状況にあっても人間は幸福になれます。一方、全てを兼ね備えてる境遇にあっても人間は不幸になることができます。つまり人間を幸福にしたり、不幸にしたりしているのは、事実ではない。事実に対する解釈次第、つまり心次第で人間は幸福にもなり、不幸にもなる。したがって何も持たない人、金もなく、地位もなく、才能もなく、名誉もなく、家族もない人でも幸福になれる。退職して隠居してようが関係ありません。むしろそのような人こそ、究極的な意味では真の幸福を手に入れやすい位置にいる、と言えます。

 

なぜなら、地位権力名誉セックス異性等々、人間の欲望の対象となるものは、実は真に人間が求めているものではない

からです。しかしなぜか私たちはこれらのものを手に入れれば幸せになれる、と考えている。だからこそ、子供の頃から血まなこになって勉強し、いい大学に入ろうとする。いい大学に入ろうとするのは、結局は収入のいい職業、高い地位につける職業を求めているからでしょう。

社会人になればなったで、多くの人が金儲けの競争や出世競争に明け暮れる。

そうやって人生の大半を金や地位や権力を手にいれるための努力に費やす。

 

しかしこうした競争に勝ち続ける人はごくわずかです。多くの人はいつか負ける。負けても頑張る人もいる。しかしいつか時間切れになり、人生に失敗したと考えてしまう。そこで自分は不幸だと思い込む。よほど運のいい人は勝ち続ける。しかし目標のものを手に入れた瞬間、その人は外面での成功の反面、内面(心)が空っぽであることに気付く。現代人のほとんどが心の中にどこか虚しさを感じている。その原因は、

真に自分が必要としているものが何かが分からず、

真に自分が必要としていないものを追い求めているためです。

 

 ※幸福になるには、執着を絶つしかない、と言われます。

お釈迦さまがそのように言われたわけですね。つまり不幸とは、欲望が満たされないために起こるものです。お釈迦さまは人生の本質は「苦」である、そして「苦」を克服するには、無明を絶つしかない、ということを見抜かれた。無明とはこの世の真実を知らないゆえに執着すべきでないものに執着してしまう、ということ。これが私にとってエスエスブロン錠でした。

前にも書きましたが、人間はこの世の真実を知らないがゆえに、

あらゆるものに執着します。。人間は金、財産、地位、名誉と言った物質的なものから、性や異性や家族や他人といった人間に関連したものまで、あらゆるものを欲望の対象とし、その対象を追い続ける。

そして手に入らなければ自分が不幸だと思い込む、このレベルになると完全な「執着」が完成します。しかもこの欲望の対象は、本当に自分が必要としているものでもなく、それらを手に入れたとしても幸せはやってこないものです。私はブロンに執着し。不幸を感じませんでしたが幸せではありませんでした。これらの執着を絶ってこそ、真の意味で人間は自由になる。真の意味で幸せになる準備ができるのです。

 

では執着を絶つにはどうすればいいのか、欲望をどのようにしたら制御できるのでしょうか?そのためには自分を知る、ということが重要です。人間という現象は大まかに言うと次の3つに分けられます。

1 身体

2 心=自我

3 意識(1,2を観察するもの)

 私たちは通常、1-3すべてをひっくるめたものが自分だと思っています。しかしよくよく考えてみると私たちは身体でないのです。たとえば、事故で右手を切断した場合を考えます。切断された手の組織、細胞は血流を絶たれて死んでしまいます。私たちは右手を失います。しかし右手を失っても私は私です。切断された方の右手が私だと考える者はいません。このようにどんどん事故で身体を失っていったとしてもそこには身体を失っていく自分が依然としている。つまり私たちは身体ではないのです。

 

では最後まで残るのは脳だ、だから自分は脳だ、と考える人も多いと思います。2,3の心や意識は脳から生じるものと多くの人は考えています。だから自分は脳だ、という考えは一見正しいのですが、実はこれが「無明」へとつながっていく考えなのです。実は脳の機能は、ほとんど2の自我、ないし心の働きに限られており、3の意識はもっと上位に存在する不可知・不可思議なものです。そして3の意識は実は脳の機能ではないのです。このあたりの脳科学の事項の詳細は省きます。

 

では心・自我とはいったいどのようなものか?脳科学的には、身体からの知覚、そして思考・感情といったものが脳の機能であることは良く分かっています。原理的に言って脳とは一種のコンピュータに過ぎません。コンピュータとはどういうものか。コンピュータとは機械的、自動的なものです。つまりあるAという情報が入力されたとき、Bという応答が返ってきたとします。この場合、別の日に同じコンピュータにAという情報を入れたとき、Cという答えが返ってくることはありません。1000回、Aという情報を入れれば1000回とも必ずBという答えが返ってくる。1回たりともCという答えが返ってくることはありません。脳という臓器を科学的に見た場合、脳とはそういうものです。そこに自由意志などというものはない。したがって、思考・感情も実は自動的・機械的なものなのです。つまり、心や自我も機械的・自動的に動いているものと考えて差し支えない。これが仏教的に言っても、心や自我は実在とは認めがたいもの

、つまり無我の根拠の一つです。科学的に言いますと、自我は機械的なものである、ということと、もう一つ重要なのは記憶という機能を持っていること。この記憶という機能ゆえに、自我は過去のものです。自我は、脳を基盤とするゆえに脳が進化する過程でのすべての歴史、つまり膨大な過去がその中に組み込まれている。いわゆる本能と呼ばれるもの、食欲、性欲など極めて動物的なもの、原始的なものですが、自然なものです。それ自体はいいものでも悪いものでもない。それは置いておいても、一人の人間を考えた場合、その人が生まれてからの経験を記憶するとともに、その経験によって形成されてきたものが「自我」である。そこにすべての社会的な教育、すなわちあなたを社会に適応させるための教育の影響が織り込まれている。つまり「自我」こそが「個人」の基礎となっているものです。たとえばあなたが山田太郎、という名前の人間であったとします。あなたが「山田太郎」だと思っているものは、あなたの脳が機能し始めてから現在に至るまでの経験と習慣の集積に過ぎない。そして思考とは、過去の記憶を再生した情報を脳特有の機能である論理回路に入力して演算を行う自動的な過程に過ぎないのです。そして感情とは、外界からの情報に反応するある限られた脳の反応のパターンに過ぎない。だから嫉妬を引き起こす情報が入ってくれば嫉妬が起こる。怒りを引き起こす情報が入ってくれば怒りを引き起こす。怒りを引き起こす情報が入ってきたときに喜びを引き起こすことは決してない。すべて自動的な反応です。つまり自我とは自分ではない

、機械のようなものに過ぎない。

 

 ここで欲望について考えてみましょう。欲望を制御するためには、欲望とは何か、というより欲望が起こるメカニズムの方が重要です。その基本は、まず自我が極めて不安定なものである、という事実です。自我とは、悠久の進化の過程で脳に刻み込まれた歴史、生存を脅かされてきた歴史の故に、自己の生存にしか実は興味がない。そして自己の生存がいかに危うい、不安定なものかを良く知っている。それゆえに常に不安で、恐怖に満ちている。それがために強く安定を求める。みずからを支えるものを常に探しているわけです。そしてそれが欲望です。そして自我は、物事を理解する方法として思考しか持っていません。思考は実は極めて貧弱な未完成な論理回路しか持っていません。それは世界の真実を知るにはレベルが低すぎる。だからこそ、思考は物質的なレベルしか理解できない。自我の欲望に突き動かされて生じる思考は、自我の支えとなるものとして、自分が今まで経験してきた物質的なものしか自我に提示することができません。思考は過去のちっぽけな成功体験を未来に投影する。そして哀れな自我は、思考が提示するもの、金、地位、名誉等々のものを手に入れれば幸せになれると思い込み、未来への虚しい期待・希望の中に生きる。こうした自我の存在のしかたが、人間を過去・未来に縛り付ける。真に生きること、今という瞬間に生きることを忘れてしまう。しかし悲観する必要はありません。自我を完全に安定させ、欲望など消え去ってしまう存在が自分の中にあるのです。それが真我です

 

さて、私が本当に話したいことは3の意識についてなのです。今まで述べてきたように自我は、脳によって作られた幻のようなもの、せいぜい自動的・機械的に作動する機械に過ぎません。本当の自己とは3の意識です。意識は現代脳科学的に言っても「ハード・プロブレム(難問)」と呼ばれ、いまだにそのメカニズムの断片すら解明されていません。原理的にはコンピュータと同じ脳という臓器から、「自分を自分として認識する、そして自分の外の世界を自分とは異なるものとして認識する」という機能が発生するメカニズムを想像すらできないのが現状です。それもそのはず、東洋の叡智を学べば、意識が脳の機能ではないことが明らかです。そして人間のすべての本質、すべての尊厳、すべての自由もこの意識に由来する。自由意志もこの意識の中にのみ存在します。この意識を真我(アートマンと呼びます。つまり真我とは、個人意識、私が私であるという意識の源であるとともに、宇宙の根本原理でもある。真我は論理的思考や言語をはるかに超越しており、言語では否定的にしか表現できないものです。仏教的に言いますと「空」に近い。空とは、限定されない、果てしがない、特定のものとして示すことができない、すべてのものを包含する空間のようなものですが、

真我にもほぼ当てはまります。

 

真我を意識することはそれほどむずかしいことではありません。真我とは、すべての自我の動き、心の動きを観察するものです。自分の心の映像を観察するもう一人の自分を誰でも感じたことがあると思います。それは真我そのものではないですが、真我が自我に反映したものです。真我に由来するこの自己意識は非常に強力なものであるがゆえに、通常私たちはこれを自我全体に反映してしまう、さらには身体全体にもそれが浸透していく。これが私たちが自我や身体が自分だと誤解する所以である。つまりここに自我や身体の自己同一化が起こっている。私たちは注意深く、この自己同一化の幻を消していかなければならない。いずれにせよ、真我は自己認識としての意識としてかなり明瞭に感じることができる。現代の最高の覚者であるところのニサルガダッタ・マハラジは、人生を次のようなものとして表現します。すなわち、山田太郎という個人を例にとると、山田太郎の真我とは、山田太郎という人間が生まれ、そして今に至るまでの映画を鑑賞している観察者である。山田太郎の真我は、ただ映画を見ているだけなので、山田太郎の人生に起こる出来事には全く影響されない。その不動の位置から、常に山田太郎の経験する知覚、思考、感情を映画のようにただ観察している。この真我はもはや山田太郎という個人ではない。大宇宙のいのちの根本とつながっている普遍的な純粋な存在である。この真我は、絶対的な安定、時間空間を超越した存在、不生不滅(つまり生まれたものではなく、それゆえに滅するものでもない、永遠不滅のもの)、至福(快楽、苦痛を超越した幸福そのもの)、不増不減(人生の出来事、その他の何かによって増えたり減ったり、影響を受けたりしない、不動不変のもの)である。必要なものはすべてここにそろってあり、何かを付け加えたり変えたりする必要などない。完全に自足し、満ち足りている。この真我があなた自身である。仏教的には「仏性」とも言いますが、つまりあなたは実は至高の存在なのだ、ということ。バグワン和尚は、あなたはブッダだと思いなさいと言っております。つまり、あなたは、自分が人類史上最高の魂のレベルに達したお釈迦さまである、と思っていいのです。しかしあなたはそれを自覚できていない、だけなのです。

 

 この真我を深く自覚するには、瞑想しかない。つまり真我の認識を妨げているものは、何かと落ち着きのない不安定な自我であり、自我の思考である。思考は自我の欲望によって生じる。したがってまず自我を捨てること、山田太郎としてのすべてを捨て去ることを必要である。欲望も思考も感情も固定観念も価値観もすべて山田太郎を構成しているすべてを捨て去る、ということが必要。これがなかなかむずかしいわけです。しかしいったんこれらを捨て去ると、過去・未来からの呪縛が消え、今という奇跡の瞬間を認識することができる。瞑想において今の瞬間を認識すると、真我が見えてくる。真我を一時的にでも感じれば、その素晴らしさの片鱗が理解できる。真我を一時的にでも感じると、不完全ながら至福の状態になる。その至福の状態は、自我の不安定さを解消する強力な作用があります。自我の不安定さがなくなれば、欲望もなくなります。つまり、実は金や地位や名誉を欲しがる必要などないし、それらのものは人間を真の意味で幸福にはしない。幸福になるには、真の自分を知ること、真我を知ることのみで十分である。真我を知った者は、金を手に入れたり、地位を欲しがったりしなくなる。なぜなら、真我は、貧乏であっても地位が低くても影響を受けない、真我こそが真の幸福を与えてくれることを実感すれば、それ以外の何も必要ではなくなるからです。逆に言うと、自我や欲望を完全に消し去るためには真我の認識以外の方法はない、ということである。真我こそが人間の真に求めるもの、と言えばかなり語弊がある。真我こそが自分である、というのが正しい。ただそれを自覚する、ということだけです。実はそれが仏教でいう「悟り」

につながっていくものであり、すべての人間の人生の目的ないしは宿命そのものなのです。

 

 つまり真我は死の問題も解決します。東洋の叡智は、死とは肉体が滅することであるが、人間の魂にとっては、肉体の死とは単なる魂の状態の移行に過ぎないことを洞察しています。水が水であることは変わらないが、100℃を越えると水が水蒸気に変わるようなもの。つまり液体が気体に変わった、分子の存在する状態が変わっただけであって、水であることには変わりはない。真我は大宇宙のエネルギーそのものです。エネルギーが滅することはない。このエネルギーとしての真我は不滅である、という感覚は瞑想によって体験可能です。しかし真我が存在する状態は変わっていきます。輪廻がどのようなものか、人間の思考では理解不可能であるわけですが、真我が、その宿る肉体を変えながら幾多の人生を継続していく過程と思われます。これは無明のなせるわざであり、無明のため、さまざまな生への執着が消えない限り、真我は肉体を借りてこの世に何度でも再生してくる。しかし真に真我に目覚め、涅槃に至るならば、二度とこの世に再生してくることはない。涅槃

がどのような世界が分かりませんが、欲望と恐怖を本質とする自我のレベルをはるかに超えた真我のみが達することのできる至高の世界と考えて間違いないでしょう。つまり真我に目覚めない限り、何度でもこの世での人生を反復する。真我に目覚めれば、長い長い人間としてのゲームが終了し、至高の世界へと移行していく、ということになります。

 

 

 

長文ありがとうございます☆(o・ω・o)ゝ。